rappappanekoのらっぱ日記

あおいのトランペットよもやま話

コラム番外編 ターニングポイント

「PRお題 転機が訪れたのはいつ?」

 

私のトランペットライフにおいて、何度か転機になるような出来事があったと思う。その光景のイメージと懐かしさと、感謝の気持ちと、そしてちょっと苦い感覚と共に、思い出すシーンがいくつかある。
そのうち3つを挙げてみよう。こうやって書いてみると、私自身にとって良いレビュー(振り返り)になるに違いない。

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オーディエンス

今はもう無くなってしまったけれど、故郷のターミナル駅前のデパートで、地元ラジオの公開生中継で演奏したことがある。吹き抜けになったエスカレーター横のスペースの一角で…確か2、3回同じお仕事をいただいた。内容は、ディキシーランドジャズの演奏。キャリアの初期に修行させてもらったバンドでだった。
当時はまだまだ駆け出しで、いつも本番では見えない何かと格闘している感覚もあった。もっと上手くなりたい、良い演奏がしたい、音楽にもっと入り込みたい…と。楽器を吹くことに今とは違う緊張感があって、上手い下手とは別に、「硬い」演奏だったと思う。

ラジオ局の人のキューで演奏をスタートして、何の曲を演奏したかは全く覚えていないけれど、買い物のお客さんが足を止めて周りで取り巻いて、エスカレーターに乗り降りしながら、あるいは高層階から見下ろしたりで、たくさんのギャラリーがいる中でのパフォーマンスだった。
演奏と生放送が終わって、片付けに控室に戻ろうとした時、ひとりの年配のご婦人に話しかけられた。

「先ほどの演奏、とっても良かった。本当に楽しかったわ。」
「ありがとうございます!」
「私ね…今、家族が病気で入院していて、毎日家から病院に面会行ってるの。もう本当にこの先どうなるのか心配で、毎日落ち込んでしんどくて…。」「今もね、病院からの帰りで。買い物に来て偶然こんな楽しい音楽が聴けて、気分がパーっと晴れてね。本当に久しぶりで明るい気持ちになれたわ。ありがとうね!」
「…こちらこそ、楽しんでいただけて嬉しいです。ありがとうございます。」

音楽の持つパワーを、普段の生活の中で音楽が持つ意味を、この時初めてリアルで知った。
そして私にとって、音楽を届けるべき先は常にオープンで、言うなれば“その辺を歩いている町のおじさんおばさん”、一般の方々、音楽に関して素人の人々なのだ、と強く意識した瞬間だったと思う。

後々いろいろと経験を重ねて考えたことがある。
ミュージシャンの中には、いわゆる「専門家」…その道の先輩だったり大御所だったり、時にはプロダクションや評論家やメディアだったり、影響力を持った人たちに自分の演奏を評価されることに重きを置く者が、多いと思う。
重きを置くこと自体は悪いことではないけれど、「自分はこう表現したい!」「私はこういうプレイヤーです」という意思を見せずに、他人に自分のやっていることの内容を丸ごとジャッジしてもらって、自分の存在意義を確かめるような、他人任せな態度をとる人もいて、私はいろんな意味で疑問も感じる。
もちろん専門的に見て、音楽的に完成されている、楽器の演奏レベルが高い、商業的職業的に洗練されていて価値がある、という評価を得ることは大事なことだし、プロフェッショナルとしては大きな意味を持つ。
そのことはよく理解した上で、でもやはり音楽の恩恵を受ける対象は、専門的でない一般の方が圧倒的に大多数だし、そういう人たちにこそ演奏を聴いてもらいたい、音楽を届けたい。私は強くそう思う。

決して自信があったわけでも聴き映えがしたわけでもない当時の私の音でさえ、誰かの心に響くことがある。いつもいつもこんなドラマチックな出会いが起こるわけでもないけれど…。
演奏する時も教える時も、今の私のスローガン「音楽を人生の潤いに」には、あのご婦人からかけていただいた言葉が根底にいつも流れていると、今でも思う。

 


師匠

そして偶然の一致ながら、別の日のやはり同じ場所でのラジオ生出演の演奏を、音大時代の恩師が聴きに来てくれたこと、あれも間違いなく私にとっては、大きな分岐点だった。
在学中も卒業後ももちろん、私は師匠のリサイタルを何度も聴きに出かけたけれど、師匠の方が私の本番を覚えていてくれてわざわざ大阪から京都へ来てくれたことが、感謝感激であった。

前述したとおりその頃の私の演奏は、まだまだ修行中といったところ。でもクラシック音楽を教え学んだ間柄としては、私が全く違うジャンルの音楽を演奏している姿に、驚きもあったのだと思う。
演奏の後、「良い演奏だったよ!いつの間にジャズが出来るようになったんだい?」「アドリブ演奏はどんな練習してるの?スイングのリズムはどうやって?」(師匠との会話は英語なので、この台詞は意訳拙訳。)
クラシック奏者にありがちな偏見とは無縁の、音楽愛に溢れた良い先生だとつくづく思う。
楽譜を離れたジャズ演奏に対する好奇心、(何度も言うが当時の私の演奏は全然レベル的に低いものだった、にもかかわらず)自分の知らないことを知っている者から学ぼうという姿勢…単純にトランペットプレイヤー同士の会話として、師匠と会話できたのが私には新鮮で、嬉しくもあった。

音大時代はどちらかというと落ちこぼれで、かなり出来が悪かった。意欲は人一倍持っているものの、奏法も安定せず全くの未熟者であった。レッスンで先生から出された課題を、絶対に次のレッスンまでに出来るように練習する。人より出来ないから、練習は人の二倍三倍する。真面目さだけが取り柄のような学生だったと思う。
そんなところを汲んでくれたのか、真面目過ぎて周りの学生の遊んでいる雰囲気から浮いている私の良い友人にもなってくれた、やっぱり良い師匠であった。
しかしたぶんもちろん、私のことを心配してくれてのことだろうが、「トランペットを諦めるように」と忠告してもくれていた。
「あなたはトランペット吹くのには、どちらかというと向いていない。」「ある程度のレベルまでしか上達しないだろうし、プロフェッショナルとしてはこの先難しいだろう。」「人生にはトランペット以外にも、楽しいこと興味深いことがいっぱいあるんだから、自分の可能性を音楽に限定してしまってはいけないよ。」…今思い返せばよく理解できる言葉の数々も、若かった私には辛いものもあり、反発も感じていた。

それでも音楽を続けることを選んだ私にも何か取り柄がある、と思えた、あの時の師匠との会話は、やはり後ほど大きい意味を持つこととなった。
ディキシーランドジャズ、あなたには合っているよ。これからもどんどん演奏しなさい。」そう言ってもらえるようになったのだ。
「私はプロのプレイヤー引退したら、趣味でディキシーを演りたいとずっと思っていたんだよ。あなたに教えてもらおうかな。」と冗談交じりに話されていたこともあった。
そしてこうも言われた。「昔から音楽家には“パトロン”が付きもの。今のあなたにとっては、家族が“パトロン”なんだから、感謝して支えてもらいなさい。」

師匠とはそれからも一緒に食事をしたり、私の自宅に来てもらったり、一緒に観光地へ出かけたり、良い関係であった。
そしていよいよ日本での教壇を去られることになって、私の両親や家族で、師匠と来日しておられた奥様を京都祇園での夕食に招待した時のこと。
いろんなことをいっぱい話して、楽しい夜だった。いよいよお別れとなった時、師匠は何度も何度も繰り返し、出来る限りの日本語で私の両親に、「あなたたちのチョウジョ(長女、私のこと)はダイジョウブ。トランペットをずっと吹く、ジャズの演奏ダイジョウブ。頑張ってる、上手くなる。家族が助けてくれる、ダイジョウブ。」と言い続けてくれたのだった。
今もあの時の師匠の言葉を思い出すと、感謝の気持ちで胸が詰まってしまう。

音大へ行くことも、卒業後の活動についても、何をしても両親からは許されてはいたものの、反対も度々唱えられていた。もちろん私を心配する故だが、やはり両親とはギクシャクすることも多かった。
師匠の「説得」の後、両親ももう何も言わず、よく演奏の場に聴きに来てくれるようになったし、本当にあらゆる面で私を支えてくれた。感謝してもしきれない。
そこでやっと、先の師匠からの私に対する“パトロン”発言は、家族の支えに対して素直になれなかった、音楽することにどこか腹を括れなかった私への、適切なアドバイスだったと悟ったのであった。

今でこそ「トランペット演奏でのトラッドジャズをライフワークとする」と堂々と?言い切っている私だけれど、未だこれが正解かどうかはわからない。きっと答えなど出ない。
天性の才能でもってトランペットを吹いている人を心から羨ましく思う一方、「これが私」とも感じていて、それで良いと思う。
トランペットを吹くのには向いていないかもしれない私が、紆余曲折、迷い苦しみながら選び取ってきたものは、きっとそれで良いんだという気がする。

 

 


袂を分かつ

最後に、ちょっと躊躇してしまうのだが、ここは敢えて、あまり心地良くない出来事も披露してみようと思う。
私がとあるバンドを辞める決心をしたときのことだ。
それまでもバンドは辞めた経験は何度かあるし、そもそもバンドという人間の集まりに揉め事は付きものなので、良い辞め方ばかりではなく、むしろ苦い記憶が多い。
それでも、その時のバンド脱退の経験は、私にとっては特別に辛く苦しいものであった。

そのバンドでの演奏を通して、たくさんの経験を積んで大きく成長させてもらった。もちろんやりがいも感じていた。自分の能力のありったけを注いでいた。その後辞めて何年も経って、しかも首都圏へ遠征に行っても、覚えていて下さるお客様がいらっしゃるくらい、活動していたバンドであった。

しかしいつの間にか…バンドのベクトルと勢いが感じられなくなってきた。ジャズに興味を持てば持つほど、「お仕事として成立してれば良い」というバンドのスタンスに甘んじることが、焦れったくなった。傲慢かもしれないが、もっとバンドの演奏レベルを上げたいという欲求も出てきた。もっと上の方へ行けば、違う景色が見えるんじゃないかと思うと、居ても立ってもいられない気持ちになってしまった。

今振り返ってみると、事態を打開したいばっかりに、バランスを欠いた言動もしてしまったと思う。
そして当然理解を得られず、孤立。そしていくつかの言葉や態度の行き違いが、私の背中を押した格好で、辞めることを決めた。

「決めた」と簡単に言ったが、数年間いろいろ問題解決出来る可能性を探り、決定的に揉めてからも半年ほど悩んだ末、1ヶ月ほど活動休止して海外へ気分転換に行き、それでも結論を出せずにいた。正直言うと、そのバンドを通しての収入が減ることや、関連する他の仕事のオファー元との関係が切れてしまうことへの恐怖心も、大いにあったのだ。
そんなある春の日、急にポンと音がして何かが弾けたかのように、「辞める」と思えたのだった。何がきっかけでそう思えるようになったのか、今でもわからない。でも、私の心がそう決めた、急に視界が晴れて明るくなったような、あの感覚は忘れられない。もしかしたら、気に病みすぎた結果振り切れてしまって、充分やり切った満足感みたいなものだったのかもしれない。

それからは何の迷いもなく、しかし絶対に意地でも筋を通したい私は、バンド側には辞める「相談」ではなく一方的な「通告」をしつつ、その時点で受けているそのバンドの仕事は全うするため、8ヶ月間を針のムシロで過ごしたのであった…。
(辞めた後はかなり消耗してダメージがあったので、少し引きこもりや対人恐怖っぽい傾向になり、教える仕事もしばらく休んだし音楽自体を止めることも頭をよぎったし、カウンセリングを受けたりもした。
まあ結局は、らっぱも止めずに現在に至る。)

以前は本当に、自分に出来ることは何でもするという態度で、どんな演奏の場へも顔を出した。がむしゃらと怖いもの知らずでもって、きっと無茶もしていたんだと思う。
でも今は、もう、自分のハートが動かないことは出来ないなと感じている。
人生は短い。トランペットもスポーツと同じで、いつ体力と気力の限界がきて、吹くのを止めるかはわからない。わからないけれど、いつかは何らかの形で確実に終わりが来る。
限られた時間を大切に、充実したプレイヤー人生を楽しみたい。そんなことを考えるようになった今、自分の好きなことに忠実に、苦手なことから逃げることなく、出来ることをめいっぱい演っていきたいと、心から思う。